文:高栖匡躬
都内から、郊外の古い借家に移り住んで、3か月が過ぎた。
少し前まで、私は電子出版で少しは名の知れたIT企業にいて、マネージャーを務めていた。しかしM&Aを機に外資から迎えられた新社長と、どうにもそりが悪くて、辞表を出した。つまり、都落ちというわけだ。
振り返ると、バイトをしていたベンチャー企業にそのまま就職し、それから10年。がむしゃらに働いた。
当時社員5人だった会社は10人になり、50人になり、上場してから急拡大して、今や1000人の中堅企業に成長した。
「もうちょっと我慢したら、来年は役員だったのに」
と友人達は言ったが、未練はない。
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そろそろ、何か仕事をしなければと思うが、どうにも気が乗らない。
前と違うことをやるとだけ決めているが、それが何なのかまだ分からないでいる。
幸い預金通帳には、ストックオプションで得た上場益が幾ばくか残っている。
だから、切迫感も湧いてこないのだ。
今日も昼間から、縁側に寝転んで本を読む。
古い戸建を選んだのは、縁側で読書がしたかったからだ。
書斎と決めた玄関わきの6畳間には、壁一面に作り付けの書棚を設けた。
買いためていた大量の古本を、そこに並べようと思ったからだ。
作家の書斎のように、本に囲まれる空間が昔から憧れだった。
電子出版に関わっていた反動からだろうか、私は妙に実物の本に心惹かれる。古本のちょっと湿ったような匂いがたまらなくいい。表紙に着いた擦過痕もいいし、チョット変色した、手垢の付いた感じも好きだ。
書棚が完成して、蔵書を納めてみると、ほんの一角しか埋まらなかった。
そのうちに、この棚を全て埋めてやろうとは思う。しかしまずは、今の蔵書を読み終えることが先決だ。そして全部読み終えるまでには、次の職を探そう。
季節は新緑の頃を過ぎてもう初夏だ。陽射しがポカポカと暖かくて、柔らかい風が頬を撫でていく。生垣に沿って、タンポポが列をつくり、その花が首を振る。
「ああ、気持ちいいなあ」
と思ったところで、眠りに落ちた。
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――どれくらい眠ったのだろうか?
寝苦しくて目が覚めた。
理由は――、私の腹の上に丸くなった猫がいた。
驚いて飛び起きようとしが、猫があまりにも当たり前な風でそこにいるものだから、なんとなく気おされてしまい、そのまま様子を見ることにした。
頭がハチワレで背中と足は黒で。胸から腹の毛は白い。
私の動揺を感じたか、猫は一瞬薄目を開けた。
しかし、大きな欠伸を一つしただけで、また目を閉じた。
外飼いの猫なのか? それとも迷い猫なのか?
人には全く警戒心がないようだ。
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そっと手を伸ばして、顎のあたりを撫でてやると、ゴロゴロと気持ちよさそうに喉を鳴らした。日の光を浴びて、猫の毛は暖かい。やや熱いくらいに暖かい。
私は両手で、その猫を胸の上に引き寄せたてみた。
体が伸びると猫の4本の脚先は、ブーツを履いたように白いのだと分かった。猫はグゥと不快そうな声を漏らしたが、されるがままだった。
猫の毛は太陽の匂いがした。干した布団のような芳ばしい匂い――
「ああ、いいなあ」
私の心は弛緩し、その匂いを嗅ぎながらまた猫を撫でた。
猫はしばらくそこにいたが、やがて身をよじると、私の手をすり抜けて行った。
縁側から地面に飛び降りて、振り返りざま「ニャア」と一つ鳴いて、生垣の隙間に潜っていった。
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名残惜しさに私は、猫を撫でていた手の匂いを嗅いだ。もうそこには、太陽の匂いはなかったが、ほんの少しだけ、それとは違うほのかに甘い香りがした。
その日から、猫は私の縁側に来るようになった。
餌をやるわけでもないのに、昼ごろに家に来て、本を読む私の横で寝たり、毛づくろいをする。そして気が済むと、さっとどこかに消える。
猫からはいつも、太陽の匂いがした。そしてあの甘い香りも。
郊外に住むと、そこには町内会と言う繋がりがまだ活きている。
読みもしない回覧板が回ってくる。それがほんの僅かだが、私を地域の一員として繋ぎ止めている。
いつものように、私は回覧場を手に、隣家の呼び鈴を押した。
ガチャリと鍵の外れる音。
いつもの老婆が目の前に現れる――
――はずだったのだが――
なんと目の前には、美しい女性がいた。
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私が回覧板を差し出すと、その女性は「いつも祖母がお世話になっています」と言った。出版社で編集の仕事をしているのだそうだ。
祖母と2人で暮らしているが、仕事柄ライフサイクルが普通と違うので、近所付き合いができないのだと言って、女性は「すみません」と詫びた。
詫びる必要などないのだが。
私が玄関のドアを閉めて辞そうとしたときだった。女性からほんのりと、あの甘い匂いが漂ってきた。
「あのう」と私。「猫を飼っていらっしゃいますか?」
「いいえ」とその女性。「何故そんなことを?」と首をかしげた。
「うちにくる猫が、あなたと同じ匂いを……」
私の言葉に、女性の顔が弾けた。
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「お宅にもあの猫が?」
聞けばその猫は、いつの間にかやってきては、取り込んだばかりの洗濯物にくるまって寝ているのだそうだ。
「あいつ、通い猫だったのかあ」
思わずつぶやいた私。
「クスリ」と笑う彼女。
私の脳裏で、あの猫と女性の笑顔が重なった。
――了――
文:高栖匡躬
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この記事は、下記の週刊Withdog&Withcatに掲載されています。
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