文:高栖匡躬
さて、この連載ですが、ようやく最終回です。
一口に産業獣医師と言っても、それが産業動物を診療する獣医師だけを指す場合と、防疫や食の安全を担う公務員獣医師も含んでいる場合があって、そう簡単に書くことが出来ません。
実は、簡単に書けないと言う事自体が、この課題の複雑さであり、議論の難しさであるように感じます。
さてそれでは、話を進めていきましょう。
【目次】
- 過不足を議論するには、適正数という前提が必要
- 未知の脅威は想定されているのだろうか?
- 今一度、獣医師は足りているのか考える。
- 他国の産業獣医師の報酬は?
- 他国の産業獣医師の人数は?
- 未知の脅威(例えば新型伝染病)に対応するには
- ここまでのまとめ(産業獣医師、公務員獣医師に関して)
- 連載を通しての結論
- このシリーズ記事の全体構成は
- もう一つの動物医療問題(狂犬病予防注射)
過不足を議論するには、適正数という前提が必要
産業獣医師にしても公務員獣医師にしても、人数の過不足を議論する前に、本来の適正人数を知らなければなりません。
沢山の資料を読んでみると、今の状態は不足していると言われながら、現場にオーバーワークを強いる状態で、なんと持ちこたえているという状況のようです。そして今後は、現場が多数の定年退職者を出す事から、全体的には不足傾向というのが、確からしいと思います。
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ではどれくらい足りないのか?
現状通りで、現場が忙しい状態を是とするのならば、今後増える定年退職者が不足数ということになりまます。逆にオーバーワークの状態を、是正しなければならないということであれば、今の段階で既に不足と言うことです。
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現状を維持するための人数にしても、現状を是正するための人数にしても、算出するのが難しいものとは思えません。前回掲載したような、農林水産省調査による需給見通しもあります。
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また医師不足の理由も、労働環境の悪さや、報酬の低さだと言われています。
(報酬については、過去2回の記事で言及していますが、絶対的に低いのではなく、他と比較した相対的なもののように思えます。つまり仕事の内容に対して、割に合わないということです)
不足している理由が分かるのならば、待遇を改善するための費用も容易に算出できるように思います。積みます給与の平均値に、人数を掛けるだけです。
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予算が合わない、捻出できないといことであれば、結果としては畜産産業を国として放棄するということなので、これもまた明確です。
我々一般市民が知り得ぬところで、既に対策が取られていると信じたいところです。
未知の脅威は想定されているのだろうか?
実は現在、全く手付かずの問題が残されているのですが、なぜだかそれが全く議論の対象になっていません。
それは防疫上の懸念事項です。
防疫と言う側面で言えば、日本は下記の2つで危機に晒されています。
海外からの外来種
日本には今、数多くの熱帯植物が自生しています。
本来ならば、日本に入って来ても冬には枯れていた植物が、越冬をして繁殖し、勢力を拡大しています。
このことが何を意味するかと言うと、恐らくは植物だけでなく、熱帯性の動物も日本に住みつき、繁殖すしているだろうと言うことです。
ヒアリや、セアカゴケグモなど、毒を持った虫はニュースで良く知られるところですが、毒を持たず、直接人間に被害をもたらさないものは、もっと沢山いるはずです。
外来生物は、これまでに日本国内に存在しなかった、細菌やウィルスを持ちこむ可能性があり、またそれらを媒介する可能性があります。
渡り鳥
日本は北緯45度~20度にまたがる縦に長い国で、北から越冬のために、南からは繁殖のために数多くの渡り鳥がやってきます。渡りの途中の中継地点にもなっています。
ツバメ、ツル、ハクチョウ、コウノトリ、マガモ、ツグミなど、良く知られるもの以外にも、沢山の種類の鳥が日本と外国を行き来しています。
渡り鳥もまた伝染病を持ちこみ、媒介させます。
最も知られる伝染病は鳥インフルエンザですが、現在は養鶏場の厩舎での発生が騒がれているだけで、野生の鳥への伝染はほとんどニュースになりません。
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それは発生が少ないのではなく、発生と伝染の拡大が追跡しきれないという理由に尽きるからです。時々、公園で死んだハクチョウやカモから、鳥インフルエンザのウィルスが発見されますが、山林の奥深くで死んだ鳥は、そもそも発見さえされていないのです。
今一度、獣医師は足りているのか考える。
現状では外来生物に関しても、渡り鳥に関しても、防疫と言う側面から見た監視体制は、全くできていないそうです。
現実的に見ても、産業獣医師が日々オーバーワークの状況にあり、公務員獣医師が多くの自治体で定員割れをしている状態では、とても日々の業務以上の事をやる余裕などないでしょう。
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つまり変異した強力な鳥インフルエンザや、未知の伝染病(SARSやエボラ出血熱のような)が侵入してくることに対する水際対策は、無いということになるわけです。
因みに、動物と人間の両方が罹る伝染病は、人獣共通感染症と言われており、命に係わる深刻な病気が幾つもあります。
これらの対応すにには2つのことをしなければなりません。
未然に防ぐと言うことと、万が一発生した場合に、大流行になる前に、直ちに抑え込むことです。
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今現在の無防備な状況を、目の前にある危機と捉えるとすると、獣医師は全く足りていないということになります。
しかし、まだ危機ではないと考えると、現場の努力でなんとか回っているということになります。
見方によって大きく判断が変わるわけです。
他国の産業獣医師の報酬は?
ここで他国の状況を見て見ましょう。
文部科学省の獣学教育に関する会議議事録の中に、参考になる情報がありました。
諸外国における獣医師の初任給を比較すると、
アメリカの産業動物獣医師の初任給が約6万1,000ドル、小動物獣医師が約5万6,000ドルであり、日本の獣医師と比べるとかなり高い。
また、英国の獣医師の平均初任給は2万ポンドから2万8,000ポンド、
豪州の獣医師の初任給の中央値は4万オーストラリアドルと、
日本の獣医師の初任給と比べて高い。
この差が、日本の臨床獣医学教育の現状を示唆しているように思われる。
出典:獣医学教育の改善・充実に関する調査研究協力者会議(第3回) 議事要旨:文部科学省
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この資料を見ると、アメリカの産業獣医師は、初任給の段階で日本の開業医に迫る報酬が得られ、更に同国では小動物獣医師の報酬を上回っています。
他国もアメリカ程ではありませんが、日本よりも随分と待遇が良いようです。
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この資料だけで、日本の動物医療に問題があると断じる事はできません。良い報酬を得るにはその原資が必要であり、それはその国の実情を表すもののように思います。
特にアメリカに置いては、畜産業の経営が上手く行っており、それに準じて獣医師の地位も上がっているのではないかと思われます。
他国の産業獣医師の人数は?
さてそれでは、他の国々には、どれくらいの産業獣医師がいるのでしょうか?
この資料は、前回も掲載した農林水産省の、獣医師の需給見通しの中にありました。
① 獣医師数
日本の人口100万人当たりの獣医師数は、241人である。(2002年)
諸外国で、人口100万人当たりの獣医師数が最も多いのは豪州(460人)。
最も少ないのは米国(197人)。
② 獣医師数の差
人口100万人当たりの獣医師数の諸外国の平均的水準(273人)
日本と比べて大きな差は認められない。
③ 家畜と犬猫での獣医師数の比較
日本における家畜頭数に対する診療獣医師の割合は、諸外国と比較すると低い。
犬猫の飼養頭数に対する診療獣医師の割合は、諸外国の平均値に近い値となっている。
④ ただし、単純な比較は困難
いずれにせよ、諸外国と日本では獣医師が行う業務の範囲が異なるため、
単純な比較は困難である。
(以上、抜粋して引用)
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獣医師が行う業務の範囲とは、日本では畜産農家の経営の相談まで産業獣医師が行っているために負担が重い事や、諸外国の中には、看護師が医療行為を行なうことができるために、獣医師の負担が軽いということが含まれていると考えられます。
(日本では看護師は国家資格ではないために、医療行為ができないのです)
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ネット上では、産業獣医師は過剰供給気味と言う記述も幾つか見受けられましたが、もしかすると、この資料の④を見ないで書かれた記事なのかもしれません。
未知の脅威(例えば新型伝染病)に対応するには
もしも未知の脅威への対策が必要とするのであれば、今以上の防疫体制を敷き、水際の強化を行な必要があるでしょう。
それを行なうのであれば、やることは単純です。
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緊急事態に備えて公務員獣医師の拡充を行うことと、いざというときに、現場で活動が出来る、産業獣医師を補充することです。
現状で両社とも手一杯なので、仕事の質を上げるのは現実的とは言えません。
まずは人的な余裕を作り、それから仕事の内容を検討する順番だと思われます。
しかしそれはコストと無縁ではありません。
公務員獣医師を増やすとすれば、その原資が税金です。従って我々国民が危機感をもたないかぎり、実現することは難しいと思います。
産業獣医師を増やす原資は、畜産農家からの医療費増に頼るしかありません。
畜産農家が儲かっていれば、医療に賭ける費用が多くなるのは当然のことです。
逆に畜産農家がジリ貧の状況であれば、医療費は最小限にならざるを得ません。
では、日本の畜産農家は潤っているのかというと、残念ながらNOです。多くの農家はギリギリの経営を余儀なくされているのが現実のようです。
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どうすれば畜産農家は儲かるのでしょうか?
人口下減少する日本では、食肉の需要増加は望めません。
大規模化による効率UPも、狭い国土では限りがあるでしょう。
しかも現在、鳥インフルエンザや口蹄疫の被害が大きくなっているのは、大規模化した畜舎に伝染病が侵入したからであり、今以上の規模を求めるとすれば、今以上のリスクを抱えることにもなります。
残る手段は、安全に対してコストを負担するという、我々自身の意識の変化が必要なように思います。
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未知の脅威は、水際の強化で回避できるものなのか、それともその程度では焼け石に水なのかは、事が起きて見なければ何とも言えません。
それが新型伝染病ならば、感染力と毒性によって対応が異なるからです。
もしかしたら無駄になるかもしれない人員を、万が一に備えて確保しておくべきなのか? それとも起きたら起きたで仕方ないと考えるのかは、国民一人一人に託された課題であるように思います。
ここまでのまとめ(産業獣医師、公務員獣医師に関して)
今回で『犬猫の飼い主が見た、加計学園問題』は終了です。
全9回に渡る連載でしたが、全編を通して感じたことは、資料を読み解くことの難しさです。
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何度か記事内にも書きましたが、産業獣医師のくくりが公務員獣医師を含んでいる場合があり、どちらの前提で基づいて書かれた資料か、毎度読み解く必要がありました。
この難しさが『産業獣医師は足りているのか?』『公務員獣医師は足りているのか?』という議論を、複雑にしているように感じます。
国会議員や識者の方々の意見でさえ、両方の要素が明確に区切られていないように思います。
最も残念に思うことは、これらを考える切っ掛けになった加計学園問題が、今や政治の駆け引きに使われていて、本質である動物医療のあるべき姿や、獣医師の過不足、獣医師の給与や労働環境を考える機会を失ったことです。
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これについては、騒ぐだけ騒いで、放り投げてしまったマスコミの罪は重いのではないかと思います。総理が不適切な行為を行ったかどうかを追及するのとは別に、本質についてもしっかりと議論をして欲しいものです。
もしも今日、海外から、感染力や毒性を増した鳥インフルエンザが日本国内に入ってきたら、それと闘う獣医師は確保されていないのですから。
連載を通しての結論
現在の日本の防疫は、なり手の不足している(=人気の無い)産業獣医師と公務員獣医師が担っている構造です。
更に言うならば、現在その職に就いている方々の、使命感や、やり甲斐という、とても曖昧なものに寄りかかって、我が国の防疫体制が成り立っているのです。
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それでは希望が無いのかと言うと、そうは思えません。
諸外国の状況を見れば、今よりも産業獣医師と公務員獣医師の待遇を良くすることは可能なように思います。
ただそれは、給与を上げるとか、人を増やすと言う単純な解決ではないでしょう。
改善するとしたら、畜産産業全体を振興させるという広い考え方に基づかなければならないと思います。
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他方、ペットの医療では、街の獣医師が儲からなくなってきているという現実がありながらも、潜在的な市場規模は大きく、筆者の計算では1兆2000億円でした。
→これは連載3回目の記事にあります。
計算上、72%の犬猫が、年間に一度も動物病院に行かないという可能性(→これも連載3回目の記事に)を考えれば、ペットの健康に対する意識が高まれば、市場はまだまだ伸びる可能性があります。
食の安全と、ペット医療に対する意識を高めることにより、産業動物もペットも、医療収入としては伸び代があります。
どちらも農林水産省の所管なので、行政が先頭に立って市場拡大に努めれば、獣医師全体の地位向上が可能なように思えます。
その上で、防疫を動物医療の一貫として捉えてみてはどうかと思います。
実際のところ、現在も小動物診療医(街の動物病院)は、狂犬病予防注射では防疫の最前線に立っているのですから、無理な話ではないと思います。
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小動物診療医自身が狂犬病以外の防疫に関わるという方法だけでなく、ペット医療の利益の一部を防疫のために使うと言うこともできるのではないでしょうか?
要は、原資が無い中で解決策を求めるから、どこかに歪みが生まれるわけで、動物医療全体を底上げして、そこから得られる税収で対応を計るという考え方ならば、誰にも過剰な負荷がかからず、八方丸く収まると言うことです。
もちろん、それは簡単なことではありませんが。
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最後に一言。
色々と問題の多いこの分野ですが、我々が今すぐできることが一つあります。
それは、産業獣医師と公務員獣医師を尊敬することです。
過酷な労働条件にもかかわらず、両者が使命感に支えられて、防疫(つまり我々の安全)を担っていると考えると、それは尊敬されて然るべきだと思います。
また、産業獣医師と公務員獣医師が、国民全体から尊敬される職業であれば、やり甲斐が大きく精神面を支えることでしょうし、それを目指す若者も増えるように思います。
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(追記)
産業獣医師の中でも、創薬に関わる獣医師や、動物園や水族館で、観賞用の動物の面倒を見る獣医師については触れていません。そこまで踏み込むと、まずは実態を知るための情報が、これまで以上に少ないと言うことと、それを扱うことで、記事が煩雑で分かりにくくなると考え、省く事にしました。
創薬に関わる獣医師については、この記事とは別の理由で興味を持っているので、もしかするといつか調べて記事にするかもしれません。
このシリーズ記事の全体構成は
――犬猫の飼い主が見た、加計学園問題(その9)・了――
今回で本連載はおしまいです。ご愛読ありがとうございました。
文:高栖匡躬
▶ 作者の一言
▶ 高栖 匡躬:犬の記事 ご紹介
▶ 高栖 匡躬:猫の記事 ご紹介
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――前話――
今回は、公務員獣医師について検証します。
語る人によって公務員獣医師は、産業獣医師の中に含まれていたり、含まれていなかったり。資料やレポートも分類が混在していてややこしい。
これがまた、問題を複雑にしています。
最初から分けて語れば、本来はシンプルな問題。
獣医師の総数が足りているという定説も、何か怪しく見えてくる。
それって数字の上だけの話でしょ?
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この記事は、下記のまとめ読みでもご覧になれます。
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――初回の記事です――
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もう一つの動物医療問題(狂犬病予防注射)
狂犬病予防注射実施率を検証してみる
この注射には賛否両論あるようだ。積極的に反対をする人もいる。
その反対の理由を読むと、なるほどと思う。
そこでまた、色々と調べて見ました。
そして、気が付いた。
「推進している側と、反対する側では、全く論点が違うんだ」
前回記事では、狂犬病予防注射の実施率が低いことを書きました。
その中でも30%台の数字はあったことには、特に驚きました。
その数字が、どこから来たのか?
疑問に感じて、追いかけてみたのが今日の記事です。
実施率って、ちょっとした数字の選び方で変わります。