そしてそれと入れ替わるように、保護した新しい猫も加わって。
室内野良で我関せずの立場にいるはずの『みーみー』ですが、閉じられた家の中での猫社会ですから、影響がないわけではありません。相性の良い猫とそうでない猫がいるのです。
介助が必要だった『るう』
2008年には一番年かさだった『みーみー』が去り、2009年には思い出深い『まん月』を亡くした我が家でしたが、2010年も不幸は続きました。次は『みーみー』が好きだった『るう』でした。
前回の記事で触れましたが、実は『るう』は介助が必要な猫でした。2002年5月にタンスから落ちて以来、自力での排泄できなくなっていたからです。尿道を乳腺?に繋ぐ手術をして、カテーテルで排尿と膀胱洗浄を。便は指で摘便をしていました。私は朝晩その作業に追われていたのです。
『るう』は大人しく私にお世話をさせてくれる子で、本人も生きる努力をしてくれました。当初は右脚に麻痺が出ていたのですが、マッサージしたり本人の努力で、平面では自力で歩くこともできるようになっていました。他の猫たちとは走って遊んでいた覚えはないのですが、ジャレ合うことはできました。
だから『るう』は、自分を慕っている『みーみー』の毛繕いをしてあげたり、甘えてくる『みーみー』に応えてあげてもいました。
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『るう』は排泄の障害の他に、難治性の口内炎にも悩まされていました。痛み止めの注射をうつために病院に通っていたのです。しかしその口内炎は、いつの間にか口腔癌へと変わっていました。先生は無理な治療は勧められず、「静かに見守りましょう」とおっしゃいました。
先生は最後の診察の後で、「車まで僕がお連れしますよ」と抱いて運んで下さいました。そして「よくがんばったね」となでてくださいました。助手席に『るう』を寝かせて2人でドライブ。涙が溢れ出て仕方がありません。信号で止まるたび『るう』を撫でながら夜の中を走りました。
『るう』 との別れ
『るう』の最後は痛ましいものでした。
口腔癌は激しい痛みを伴うのです。食欲はあっても食べられず、水を飲むだけで「ギヤッ!」っと悲鳴をあげるほどでした。点滴を入れ、排泄して滲み出した尿で汚れた体を拭いてあげて――
安楽死も考えましたが、私にはどうしても決心がつきませんでした。
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亡くなった後体を清めようとした時のことです。お腹に開けた小さな穴から尿が溢れてきました。ちゃんと体は機能してたのです。本当に悔しかったです。
顎の下に水泡のような物が現れました。痛みの元になったものだと感じ、取ってやらなければいけないと甘皮切りばさみの先端でやぶりました。云いようのない腐臭がしました。
「これさえ無ければ」
そう思いながら、私は『るう』を清め続けました。
猫は普通、四肢を伸ばしてなくなるものです。しかし『るう』は丸くなったままでした。もう伸びる力も残っていなかったかもしれません。2010年2月28日、16歳でした。
大柄な子だったのに遺骨は驚くほど少なくて、間違えていないか確認する程でした。「ああ、るうちゃんは骨を喰んで生きてくれたんだな」
そう思ってまた私は泣きました。
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『みーみー』は『るう』がかなり具合が悪くなるまで、寄り添ってねていました。
きっと『みーみー』は、『るう』が、亡くなる前から、『るう』が深刻な状態であることが分かっていたと思います。もう以前のように『るう』は毛繕いをしてくれることもなく、甘えても応えてくれなかったからです。もしかすると『みーみー』は失恋したような気持だったかもしれません。
新しい出会い
季節は夏に変わりました――
ある日のことです。職場の駐車場に『みーみー』に似た毛柄の、白地にトラの野良猫が迷い込んできました。生後2ヶ月程で、良く見ると頭を怪我しています。私は放っておくことが出来ず自宅に連れ帰り、翌日病院で傷の手当てをしてもらいました。
「カラスに襲われたのかもしれない」
そう思いました。そして「良くなったら飼ってくれる人を探さなくちゃ」と思っていました。
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2〜3日して、その猫を遊ばせている時のことです。
突然ふわーんと体の力が抜け失神したのです!急いで病院へ。
――入院となりました。
先ず右眼が見えていない事がわかりました。その後何度かこの発作を繰り返し癲癇ではないかと云うことになりました。誰かに貰ってくれとは云える状態ではありませんでしたので、我が家で面倒を見ることに。
名前は『詩子(うたこ)』にしました。
子が付く名前にしようと思っていたのですが、思いついた名前を色々呼んでみたところ、「うた」に反応があったのでこの名前に。
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体が育っていくとともに、『詩子』には変化が起きました。調子が悪い時にとても凶暴になるのです。私はいつも生傷だらけでしたし、他の猫も近づきませんでした。先生からは怪我をしないよう、牙を削り爪を抜く事も提案されましたが、可愛そうで出来ませんでした。
こうして我が家の猫は、『るう』が去り、『詩子』が増えました。
風太《♀》(11歳)、チロ(7歳)、みーみー(5歳位)、詩子(0歳)
別れ|るう(2月28日死亡)
この4匹の状態は、翌2011年まで続いて行きます。
詩子はフワーッと気絶する発作を繰り返していました。調子のいい時にはネコジャラシで遊んだりもしましたが、高さがある所には行きませんでした。病気の影響なのか、突然(かなり本気で)怒るので、以前にも増して誰も近づかなくなりました。
私も背中を撫でているときに、ガバッと噛み付いて来る事が度々ありました。へそ天で気持ちよさそうにしているときにも、何かの拍子で豹変するのです。近くを歩いているだけで、足首に攻撃されたこともありました。
『詩子』 との別れ
2012年になると、また別れがやってきました。今度はなんと一番若い『詩子』です。
『詩子』は癲癇がしばらく小康状態を保っていたのですが、3月7日の真夜中に突然に息が荒くなったかと思うと、見る間に症状が悪化しました。悶えるように「はぁはぁ」と全身で息をしているような状態です。朝まではもたないかもと思い、夜間病院を探していた矢先に、フッと静かになりました。
『詩子』はもう息をしていませんでした。
まだ、2歳にもなっていなかったのに――
風太《♀》(13歳)、チロ(9歳)、みーみー(7歳位)
別れ|詩子(3月7日死亡)
『詩子』が去って、我が家の猫は3匹になりました。
もともと他の子たちと距離があったからでしょう。詩子がいなくなっても、猫たちには変化は無かったと思います。
ミイラのように痩せていた猫
2013年になり、職場の駐車場あたりでよく見かける猫がいました。グレイと黑が入り混じったような毛色の子です。シーズンの度にお腹が膨んでは出産し、その度に痩せて行くので、まるでミイラのようになっていました。
「このままでは死んじゃう!」
そう思った私は、餌で釣ってその猫を捕獲しました。お腹が萎んでいたので、今しかないと思いました。
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まずは検査の為に病院へ――
大柄な骨格なのに、体重は2キロ強ほどだったと記憶しています。歯が全くない事から年齢は10歳以上15歳以下とのこと。そして驚いたことにまた妊娠をしていました。
先生に「ウチで産ませて里親さん探したい」と相談したのですが、先生からは驚きの告知が――、なんとその子は猫エイズのキャリアだったのです。
――生まれた子に感染してるかもしれない。
――もしもそうならば、悲しみを撒く事になる。
そんな風に言われ、泣く泣く中絶と避妊をし、その後、野に放しました。
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もう来てはくれないだろうと思っていたのですが、その子は夕方にはご飯を食べに来てくれました。やがてその子は、ご飯を食べ終わっても帰らなくなりました。
「車を回してくるからキャリーバッグにはいってくれる?」
「待っててくれる?」
そう云いきかせ、車を駐めてある別の駐車場に急ぎました。戻って来たら、その子は待っていました。そしてうちの子に。
名前はその子らしく、『ママニャン』と名付けました。
突然に引き受けることになった子猫
この年には、更にご縁がありました。
『ママニャン』から1ヶ月も経たない10月末、知人が子猫を職場に連れて来たのです。聞けば「知り合いの倉庫で飼ってくれるから」というのです。女の子でした。
《ちゃんと避妊して飼ってくれるんだろうか?》
心配で仕方が無くて、「私にくれ」と連れて帰りました。
名前は『じゅじゅ』。
いつか寿々と云う名前を付けてみたかったので、それを平仮名書きにしました。
『じゅじゅ』はまだ赤ちゃんで、耳たぶや手の平のシワをチュッチュ吸うほどでした。スポイドでミルクを飲ませ、子猫用のウエットをミルクで溶かし食べさせました。
続くときは続くもの
続くときには続くものです。
11月半ばに、同じ知人が又子猫を連れていました。そして半月前と同じくうちの子になりました。
名前は『亀子』にしました。
しっぽが体に較べて細くて、亀のようだったからです。しかし今見ると、『亀子』のしっぽはむしろ普通の猫よりも太いくらいです。
一気に3匹の猫が増えた我が家。
風太《♀》(14歳)、チロ(10歳)、みーみー(8歳位)、ママニャン(12歳位)、じゅしゅ(0歳)、亀子(0歳)
6匹の大家族になりました!
この頃になるともう『みーみー』も、他の猫たちに対して怯えた様子はなくなっていました。といってもフレンドリーな訳でもなありません。新しい3匹にも無関心でした。
私は『みーみー』と『ママニャン 』は血が繋がっているのではないかと思っています。『ママニャン』は多産でしたし、2匹を保護した場所も同じ駐車場。それに2匹とも耳の先端に、特徴的な長い毛が生えているのです。
ただこれは、確認のし様が無い事なのですが。
『ママニャン』の変身
6匹のメンバーで、我が家は平和に時が過ぎて行きました。
『ママニャン 』は6月に避妊して以来、次第に体力が付いてきていました。その証拠に翌年(2014年)には、ミイラのようだったママニャンが片手では持ち上がらない程太り、先生も「えっ、これがママニャンなの?」ってびっくりする程でした。体重を計ってみると、なんと7キロ位ありました。以前の倍です。
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『ママニャン 』が変貌したのは見た目もです。なんとサビ柄の長毛に変身!
以前はグレイと黒が混じった毛が擦り切れたようになっていて、怪我の跡なのか皮膚病の跡なのか分かりませんが、首と腰あたりははげていました。それが徐々に毛が生えてくると、赤茶からこげ茶のグラデーションに黒が入った姿に。
元々大柄な骨格だったことに加えて長毛ですから、立派なビッグ猫です。
『ママニャン 』は名前は可愛いのですが、顔つきは怖かったです。
以前の携帯電話が壊れてしまって、写真が残っていないのが残念ですが、敢えて例えるならば、市川猿之助が演じる『黒塚』の舞台で、老女が鬼になってからの姿にそっくりでした。
『風太』との別れ
こんな風に丸2年平穏だった我が家ですが、2015年になってまた悲しい出来事が。
10月になって『風太』が痩せて来ました。特に悪い所も見つけられず食べない訳でもないので、多分老化によるものだろうと診断されました。
10月27日――
その日はいよいよ弱った『風太』を胸の上に乗せ、私はずっと撫でていました。
『風太』は子猫のような小柄な子でした。名前の由来は、台風の日のゴミ集積所で拾ったからです。『風太』は私の母が入院中にやってきたために、あまり気遣ってあげられない中で、大人猫の中でサバイバルした子でした。
『風太』は私に撫でられながら、そっと息が止まりました。16歳でした。
チロ(12歳)、みーみー(10歳位)、ママニャン(14歳位)、じゅしゅ(2歳)、亀子(2歳)
別れ|風太(10月27日死亡)
『みーみー』がうちに来た時の先住猫は、『チロ』だけになりました。
『ガリガリ君』現る
翌2016年の9月のことです。職場の駐車場に、ガリガリの骨と皮だけのような子が現れました。
その猫は幼そうで、あまりにも痩せているために、このまま死んでしまうのかと思いました。それでも捕獲をして病院で診てもらうと、歯の状態から見てもう10歳位ではないかとのこと。ビックリしました。
名前は見た目通りで『ガリガリ君』と名付けました。
『ガリガリ君』は気が弱く大人しい子です。撫でさせてくれるし、お腹も触らせてくれます。そして私が横になっていると、わきに寝そべって撫でるよう要求してきます。ブラッシングも大好きで果てなくして欲しいようです。けれど抱っこはダメです。何度も試しましたが嫌がり、今でも抱いてあげることができません。
――つづく――
●
作:ちゃりちゃり風太
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――次話――
みーみーと4匹の猫たち|3/3
『みーみー』を迎えたときの先住猫は5匹。
最後まで残った『チロ』とも別れの日が来ます。
『みーみー』は今、最年長。
室内野良の流儀にも変化が現れてきます。
どこまでが室内野良?
――しかしどこまでも『みーみー』はマイペースなのです。
――前話――
みーみーと4匹の猫たち|1/3
13年前の寒い日、臆病な野良猫を連れ帰りました。
時が経ち『みーみー』と名付けた猫は多頭飼いの最年長に。そして何と『みーみー』は、あの日からずっと室内野良のままです。
室内野良って何かって?
さて、我が家の猫たちのお話をしましょう。
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