文:夏目潤一郎
白いマグカップ一杯にコーヒーを淹れた私は、ソファーに深く腰を下すと、TVのリモコンを手に取った。出勤前にワイドショーのはしごをするのが、私の日課だ。
若い頃は新聞を3紙とって、全紙を斜め読みをしていたものだが、だんだんと面倒くさくなってきて、2紙になり1紙になり、最後まで読んでいた日経新聞をとらなくなったのが3年前。つくづくワイドショーは便利だと思う。
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私の名前は、夏目潤一郎という。職業は某私立大学の非常勤講師である。
ずっと昔は、誰もが知る有名大学で、最年少の准教授を務めており、自分で言うのも何だが、将来を嘱望されていた。教授も目の前だと言われていた。
だが――、ちょっとしたことでしくじってしまった。
そして、今に至る――
専門は生物化学で、医学博士でもある。
誤解の無いように言っておくが、医学博士は医師では無い。
そして、医学博士の肩書では飯は食えない。
私の膝の上では、猫のピッピが丸くなっている。
このピッピを撫でながら、TVを見るのが私のお気に入りだ。
冬には特にたまらない。ああ、猫がいて良かったと、心から思う。
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うちには犬のミントもいるが、そっちは朝の散歩が終わって、ご飯を食べさせるとすぐに自分の好きなクッションの上で寝てしまう。気楽なものだ。
ミントはピッピのことが大好きなのだが、ピッピはミントがしつこく遊びに誘うので、ミントのことが嫌いだ。
ミントの方も、ピッピから一度鼻先に猫パンチを喰らって以来、ピッピにはあまり絡まなくなった。時々思い出したようにピッピに近づくが、ピッピが毛を逆立てて、「フーーー」と一括するだけで、文字通り尻尾を巻いて逃げ出していく。
今は完全なる、片思い状態である。
TVを見ていると、急に臨時ニュースの『キンコン!』という電子音が鳴った。
甲高い音が嫌いなピッピが、「フーーー」と言って顔を上げる。
何事かと思ったら、北の方にある某国がミサイルを発射したと言うではないか。
その臨時ニュースは毎度のことながら、発射の瞬間を知らせるのではなく、着弾後のことだった。今回は日本を飛び越えて、太平洋に弾頭は落ちたそうだ。
これって、何の意味があるんだ?
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もう、このニュースをみただけで、ワイドショーのこれからの展開が手に取るように分かる。まずは軍事評論家への電話取材だ。画面下にその人物の顔写真がでて、電話からのコメントが流れる。
TVの中では1枚の紙が、アナウンサーに渡される。臨時ニュースを受けて、それとほぼ同じ内容を、アナウンサーが読み上げる。こういう場合は決まって2回読み上げる。アナウンサーは眉間にシワを寄せるのだか、表情はなんだか薄笑いに見える。
おいおいと私は思う。
最近の風潮は、司会の一見真面目そうな局アナが、割と深刻なニュースにも、ちょっと軽めのボケを入れて、コメンテーターからお叱りの言葉を引き出したりするのだ。どの局でもそれをやるので、トレンドなんだろう。
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実際に起きていることは、薄笑いとは天と地の差があるほど事は深刻なんだと私は思っている。あの北の某国のミサイル開発の速度は驚異的だ。
ボディーが錆びているとか、発射失敗とか、空中爆発というニュースが報道されたのは、ほんの少し前の話だ。それがこの5年ほどで、急速に進歩した。今年の頭までは、まだ失敗はあった。しかし最近は、失敗と言う話はとんと聞かない。
たまに異常らしき事があったとしても、「失敗なのか? それとも意図してやったのか?」という憶測を呼ぶ。つまり、それほど確実性が増しているということだ。
こういう、技術の急速な進歩は、時々戦争の時に起きる。
例えばナチスドイツだ。
1939年9月の、ドイツのポーランド侵攻が第二次世界大戦の始まりだった。
1945年5月に降伏するから、僅か6年未満。
その間に、ジェットエンジンが開発され、ロケットエンジンが開発され、ジェット機とミサイルが完成した。無尾翼機もその頃に出来た。レーダーもステルス技術もそうだ。戦車だってどの国よりも高性能だった。
今、世界中の軍隊が使っている兵器は、第二次大戦中のナチスドイツに起源があるといっても良いくらいだ。
人間、命が懸ると、火事場の馬鹿力を発揮するわけだ。
あのミサイルの発展を見ると、あの国が命懸けで開発をしているのだと思う。
命を自爆テロなどで無駄遣いせず、技術発展に向けさせるという姿勢は、あの国の指導者――、あの小太りの男――、なかなか頭が良いと感心する。
そして、その命懸けの国と対峙する国々は、命を懸けてなどいない。
だから、どことなく恐い気がする。
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目の前のTVでは、コメンテーターの政治評論家や、弁護士や、お笑いタレントまでもが、専門家ではないのにそれらしい発言をするので、大したものだと思う。特にお笑いタレントの頭の回転の良さには舌を巻く。咄嗟の出来事への対応力は、偉い先生方よりも、彼らの方が一枚も二枚も上手だ。
しかしーー
臨時ニュースの緊急性の勢いで話題が続くのは、ほんの僅かの時間だ。すぐに話は類型化された、いつもの話になってきた。ミサイルの性能だとか、人民の生活を犠牲にして…… という話だ。
「それ、何度も聞いているよ」
と、ついついTVに突っ込む私。
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実は私には、いつか必ず出るてくると思っている、あるニュースがある。
私は、皆がミサイルの性能に気を取られ、アメリカの東海岸に届くとか、届かないとか、弾頭が重かったらどうなるのかなどと議論している間に、北朝鮮が熟成された中距離ミサイルを、量産しているに違いないと思うのだ。
ある日突然、あのおなじみの女性アナウンサーが――
あの福々しい笑顔で――、あの張りのある声で――、こう宣言をしたらどうだろう?
「我が国は遂に、500発のミサイルを完成させた」
そして――、TV画面一杯に映し出される、屹立するミサイル群。
人間というのは、ショックに弱い。
ミサイルの射程距離に気を取られている所に、量をぶつけて来られたらどうだ?
ミサイルの射程圏内にある近隣諸国は、きっとパニックになると思うのだ。
日本はその最たるものだ。
きっとその500発は、100発でもいいだろう。
もっと言えば、その内の90発は張りぼてでも構わない。
私があの小太りの男なら、きっとそうする。
北朝鮮とっては、アメリカ西海岸に届く1発の核ミサイルよりも、もっと大きな交渉力になるに違いない。
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そうなったらどうだ? とうとう、戦争だろうか?
実は私は、もう一つ北の某国に対して――、あの小太りの男に対して、思っていることがある。
「どうせミサイルを打つのだったら、どうかローンの支払日までにして欲しい」
21日が給料日。25日が住宅ローンの支払日。
どうか――、その間に頼むぞ。小太りの男よ。
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TVに向かって、真剣に願い事をする私をよそに、ピッピは大きく口をあけて欠伸を一つすると、ひょいと床に飛び降りてリビングから出て行った。
ああ、猫にはミサイルもローンも、どうだっていいことだからなあ。
いいなあ、気楽だなあ。
文:夏目潤一郎
※このお話は、フィクションです。
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この記事は、下記の週刊Withdog&Withcatに掲載されています。
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